見立てやごっこ遊びの面白さ
今回は、ある親子講座でのことです。
今日は、新聞紙を使った造形遊び。
にぎって、丸めて、やぶいて、貼って、折って、描いて、、
偶然もまざりながら、生まれた形を見立てて遊びました。
おにぎり
おだんご
おさら
ドライヤー
ぼうし
にんぎょう
とんぼ
ねこ
ひこうき
などなど、一見まるめただけの新聞紙たちは、
子ども達一人一人の興味、関心、生活を土台に、想像の力で大変身したのでした。
毎月講座を開催しているスタッフさん達も驚くくらい、
みなさん1時間半たっぷり、、ひたすら新聞紙で盛り上がっていました。
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さて、今日はこの見立てについて少し。
見立てるとは、自分が得た情報を、頭の中で整理し、もう一度自分なりに再現すること。
つまり、情報を使うということです。
そこで思いました。
大人にも、自分が知った面白いことはすぐに他人に話したくなったり、
新しく知った方法なんかはすぐにためしてみたいっていうのありますよね。
もしかしたら子ども達の見立て遊び、ごっこ遊びの面白さの中には
なりきって遊ぶ面白さの他にも、自分が取り入れた情報を使う面白さというのがあるのかもしれません。
ぜひお家でも、身近な色や形に、想像を膨らませながら、遊んでみてくださいね。
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と、ここで話は変わりますが、もう一つ。
僕が使った「かもしれない」という言い方についても少しだけ説明したいと思います。
「かもしれない」という表現では、
「説得力に欠ける」と感じた人がいるかもしれません。
たぶん、
「子どものごっこ遊びには、自分が取り入れた情報を使える面白さがあるのです。」
といったほうが、読んで「なるほど」と思ってくれる人は多いでしょう。
講演などでお話しさせてもらう時も、
「僕は~と思います。」
という言い方でお話しをすると、
「講師のなのにあいまいな言い方をしないで。」と抵抗をもつ人がたまにいます。
しかし、僕はあえてそう言うようにしています。
なぜなら、僕がブログや講演で話させてもらう子どもの視点や推論は本人達が言ったことではないからです。
(0、1、2歳はとくに言葉では言わないでしょうし。)
お話しさせてもらうには、もちろん僕なりに、年間で何千人というたくさんの子ども達に出会わせてもらい、
色々な姿を見せてもらったうえで、推察し、考察し、整理したことを話しています。
だけど、それは、
子ども本人が言ったことではない。
僕はこのことを忘れてはいけないと思っています。
それは、たとえ現場のベテラン保育者であっても、有名大学の研究者の論であっても同じです。
大人が語るどんな子どもの視点や論、メソッドも、それはあくまで大人の推察・考察であって、子ども本人が言っているわけではない。
「子どもは~なのだ。」
「子どもは~すると豊かに育つ。」
「子育てには~が良い。」などなど
誰かががスパッと言い切って「答え」をくれると、
聞いている側は自分で考えなくていいから楽ですし、気持ちが良いです。
言う方も、相手が「なるほど。」といってくれると、なんだかもっと正しい気がしてきて、ますます勢いがでます。
そうして堂々と「答え」を発言している人の方が、親や保育現場から喜ばれて、人気の専門家になる、
といった変なサイクルが生まれていたりします。
でも、ほんとは答えなんてない。
一人として同じ子どもはいないのだから。
だから、どれほどの子ども達に出会い、
どれほどの経験から自分なりの視点や論が生まれたとしても、
そして素晴らしい学びや知識を得たとしても、
いつだって一番大切なのは、
目の前にいる子どもに対して、
何を考えているかな。
何を感じているのかな。
何が面白いいのかな。
何がイヤなのかな。
などと想像し、考え続けることだと、僕は思います。