何もしていないように見えても、ほんとうは何もしていなくない。
今回は、毎年一度呼んでいただいている、しゃけのこいくらの会さんの親子交流イベントからです。
こちら、しゃけのこいくらの会は、障がいを持つ子ども・青年と親のサークルで、普段は障がいに対する理解や、
就職支援の学習会などを行っているメンバーです。
ふだんは、親の活動がメインなのですが、年に一度、親子みんなで遊ぼうということで交流会のプログラムを担当させていただき、
かれこれ8年のお付き合いになりました。
毎年30組を超える親子さんが集まるため、皆さん好みも個性も違います。
なのでこの交流会では、半日という時間の中で、少しでも参加者の嬉しい・楽しい・心地よいを
共有できる瞬間が生まれればというのをコンセプトにしています。
共有の中身は何かというと、大きくいってしまうと、たとえ同じ活動をやらなかったとしても、
それぞれが自分の思うように過ごせて、それが他の誰かのストレスにならず、
安心して心地良くその空間にいられるということです。
というのも、大人にだって、
例えば親しい友人と、一緒のことをするわけではなく、それぞれ読書をしたり、考えごとをしたり別のことを
しているんだけど、なんとなく心地良い時間ってありませんか。
他にも例えば、
スポーツやカラオケや、ゲームなどで、自分はその遊びに直接参加しているわけではないのだけど、
少し外側から「楽しそうだなあ。」なんて眺めて、自分の中にもウズウズやワクワクが生まれる時ってありませんか。
僕はあります。
こういう時間って、一見すると何も共有してないようで、でも、ちゃんと共有しているのだと思います。
しかし、こういう時間があまり認められず
「一緒に活動をできないのはだめ。」「一緒に参加させなきゃ意味がない。」
と思われてしまうことが、子どもや障がいをもった人には多いのではないでしょうか。
それは、子ども達や障がいのある人達を、未熟だから導くべき、教えるべき存在だと捉えているからなのでしょう。
もちろん大人が、先に生まれてきて、この社会での生き方を知っている先輩として、
子ども達に教えることや伝えること、周囲がフォローしていくことはたくさんあるでしょう。
しかし、それだけではありません。小さくたって、障がいがあったって、
人間は、自分で気づき、自分で感じ、行動する力を持っている。
と、僕は思います。
なぜそのように思うかというと、それはこの8年という時間の中で、参加者のみなさんに色々な姿を見せてもらうからです。
今回の場面から二人、紹介します。
参加者の中に、今回で三回目の参加となる男の子がいました。
しかし、一回目、二回目の時は、メインの部屋には一度も入らず、
ずっと隣の部屋で過ごしていました。
それに対し、僕もスタッフメンバーも親も、無理にプログラムに参加させようとせず、
彼の気持ちを受け入れ、まずはこの場所がストレスがなく、自分が否定されない場所なんだよということが伝わればと思っていました。
そうして三年目の今年。
なんと彼は驚いたことに、最初からメインの部屋の中ですごしていました。
そして、遊びのプログラムにも参加したのです。
参加して、時には抜けて、という風に自分のペースで楽しんでいました。
さらに驚いたのが、休憩時間。
はじめて彼の方から声をかけてくれたのです。
「おにいさん。おいかけて。」
彼なりに「おいかけっこをして遊ぼう」と誘ってくれたのでした。
最初にいったように、彼は前の二回は、直接プログラムには参加していません。
だけど、その一見参加してないように見える二回を通して、
他の参加者が楽しんでいる姿を見ていたり、参加してもしなくてもアリだということの安心感を得たり、
そういう判断の要素が整ったからこそ、今回自分のペースでプログラムに参加したように思います。
***
もう一人、その日が誕生日の女の子がいました。
彼女もプログラム中は参加せず、少し離れたところに座っていました。しかしおやつの時間、彼女が誕生日なことをみんなに紹介すると、
彼女はずっと座っていたイスからスッと立ち上がり、みんなの前にやってきました。
そして、みんながハッピーバースデイをうたい、拍手のプレゼントを贈ると、
彼女は「イエイ」と満面の笑顔をみせてくれたのでした。
繰り返しになるけれど。
子どもだって、障がいがあったって、もっています。
自分の嬉しいことや楽しいことを見つける力や感じる心を。そんな子ども達を前に、
大人ができること、
大人がしなくていいこと、
どちらも大切にしたいものです。