親子の時間 スマホの時間
先日、近所のお茶屋さんで、
僕の隣の席にパパ・ママ・小学校前の兄妹
といった感じの家族が座りました。
お兄ちゃんはパパと、
妹はママと座ると、
すぐに、それぞれのコンビでスマホを眺めはじめました。
聞こえてくる音の感じからすると、
どうやらパパがやってるのはロールプレイングゲーム
(僕も子どもの頃好きだったやつなのでわかりました。)
ママがやっているのは、LINE(これは子どもが「ラインライン」といっていました。)
家族の会話はかわされていますが、目は合いません。
この光景に、ドキリとしました。
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スマホがひろまって、
今までは家でしかできなかったことのいくつかが、
どこでもできるようになりました。
それはたしかに便利なことですが、
一方で、やはり注意の意識というのももっていたほうがいいと思います。
たしかにスマホがあれば、
どこでもゲームができるし、
仕事もできるし、
たくさんの情報が得られて、
友人や多くの人とつながれるのかもしれないけれど、
例えば、こういう家族のお茶の時間。
家族で、お店でお茶を飲む時間ならではの価値というのでしょうか
(うちの家族の価値観なんだから他人にとやかく言われる筋合いはないよと言われてしまえばそれまでなのですが。
もちろん本人にいうわけではありません。
あと、もしかしたら、うちはお茶屋さんでだけスマホ解禁で家の中は禁止なのよ。
っていうこともあるかもしれないですし。これはあくまで一つの例として読んでください。)
家の中での家族団欒とはまた一味違う雰囲気とか
その雰囲気や気分の中でこそ生まれる会話とか
あるいは、ぼーっと景色を眺めるパパと、それを眺めるお兄ちゃんとか
そんな様々なやりとりの機会を、
スマホで遊ぶことによって、なくしてしまっているように思えるのは、
僕の感覚が古いのでしょうか。
親子でスマホやタブレット。
隣同士か、向かいあっているのだけど、お互い目線は画面に向いている。
それはそれで楽しいのかもしれないけど、
僕には、それよりも、
たとえお互いが何もしていなくても、
ただ向かい合ってなんとなく顔を眺めてみることのほうが、豊かな気がしてなりません。
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子どもの気分をごまかすのにも、スマホはとても便利です。
だけど、それも基本的にはごまかさなくて、いいのではと思います。
例えばお買いものの最中、子どもが飽きて、ぐずったとします。
スマホを渡せば、ご機嫌になるし、親も楽、というのはあるかもしれないけど、
その瞬間、
機嫌をよくする代わりに失くしてしまう、
わが子の経験というのもあるように思います。
家族でお買い物中、
自分が飽きちゃって、
親にぐずってみるのだけど、どうしようもなくて、
でもたしかに、つまんないけど、
親がお買いものをしたいんだなって気持ちも、それはそれで感じていて、
でもやっぱりぐずりたくなっちゃて、
こんな葛藤をいったりきたりしながら、
ちょっとずつ、ちょっとずつ、
自分の気持ちと他人の気持ちに折り合いをつけていく。
たまには親のほうから
「今日はちゃんと付き合ってくれて、ありがとね。」
なんていってお菓子を買ってくれたり、
いつも期待していると、
「今日はダメよ。」
なんて言われてしまったりもして。
そういう思い通りにいかない場面、
自分ではどうしようもない状況、
予想外にやってきた嬉しさ、
期待感、
こういうことを感じる時間は、
けっして楽しいだけの時間ではないのだけど
それもある意味一つの親とのお買いもの時間の中にある価値で、
豊かな育ちにつながる時間といえるのではないでしょうか。
「そうはいっても本当に大変なのよ!」
というパパ・ママもいるでしょう。
僕も「だからスマホはダメだ!」
なんて否定しているわけではありません。
大事なのは、大人がどれくらい意識をもっていて、
バランスをとれるかということではないでしょうか。
例えば
「ここは、どうしてもぐずったら周りにも迷惑をかけてしまう」
という場面だったら、スマホでなんとかするのもアリかもしれませんし。
でも、一回その手をつかったなら、
また別の場面では、
「この場所は、この子がぐずっても周りも受け入れてくれる場所だから、ぐずらせときましょ。」
なんて思って、子どもにはたっぷりぐずって、モヤモヤした時間を過ごしてもらって、
バランスをとる。
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楽しいだけが、豊かな時間ではない。
暇をつぶすよりも、暇のほうが、ずっと豊かな時間じゃないか。
そんなことを思いつつ、
日々の中で
スマホを使うのか。
スマホに使われるのか。
僕自身、いつも確認しておきたいことの一つです。