実践・考察

「こどもたちが、自ら見つけ、考え、遊ぶ、余白のある環境」 をテーマに、
こどもたちを取り巻くヒト・モノ・コトの環境について研究、考察します。

ほめることの弱点 自律と他律 自己評価と他者評価

子どもをほめてのばす。
これは、子育てや保育、教育において、一般的には良いことと考えられているように思う。
たしかにほられることで伸びる力もあるだろう。
しかし、なんでも褒めればいいのかというと、
そうでもないと思っている。

 

なぜなら、他人にほめられることの快感は、時に、自己の判断や満足を鈍らせるからだ。

 

この仕事をして10年、たくさんの子どもたちと造形をしてきて、絵や工作が好きな子にもたくさん出会ってきた。

 

好きなことを続けていれば、
経験が増えていくのだから、
上手くなるのも自然なことだろう。

 

だが、ここに落とし穴がある。

 

それは周囲の評価だ。

 

上手くなると、周りからも評価されやすくなる。
そして、時には賞をとる。
あるいは、みんなの見本として紹介される。

 

これは、きっと誰でも嬉しいし気持ちいい。

これが落とし穴だ。

どういうことか。

 

ほめられればほめられるほど、
賞をとればとるほど、
周りの人が喜んでくれるほど、
それは気持ちがよく嬉しい反面、
気をつけないと、自分の満足、価値観が何だかわからなくなってしまうのだ。

 

出会う子どもたちの中には、

「何を描いて欲しい?」
「何を作って欲しい?」

と得意そうに聞いてくる人がいる。
わたし、なんでも描けるよ。
上手いんだよ。
すごいんだよ。
と自信に満ち溢れているようにも見える。

 

そこで、僕はいう。

 

自分の描きたいものを描いたらいいよ。

すると、その子はフリーズする。

他人に求められれば何でも描けるのに、

自分の内なる要求には応えられなくなるのだ。
(気づかなくなるということかもしれない。)

 

もともとは絵を描くことが大好きで、
好きだから上手くなっていったその子が、
評価を受けて、今度は自分の好きなようには描けなくなっていく。
なんとももどかしい。

 

こういう姿は、子どもにも大人にも見る姿だ。

 

ほめて育つこともあるだろう。
でも、ほめないから育つこともあるのだと思う。
あるいは、ほめるにしても、薄味というか、控えめでいいこともあるのだと思う。

 

ほめられるのが嬉しくて、本人も笑顔をみせる。
だが、子どもの笑顔や喜ぶ姿の全てがプラスかというと、おそらくそうではない。

 

子ども関連の物事は、ついつい子どもが笑顔で喜んでいると、
それはイコール正解みたいな雰囲気があるから気をつけたい。

 

笑顔で嬉しいのもいいけれど、時には泣くのもいいし、悔しくてたまらないのもいいだろう。

 

それは自分のイメージと身体のギャップ、
あるいは自分と他者との間のギャップに、
葛藤し、クリアしたり、折り合いをつけたりすることだからだ。
そこにもちゃんと育ちはある。
(あくまで、自身からでてくるギャップへの葛藤であって、他者の強制や外圧による涙とか辛さとは違う)
そして、そういう育ちを大切にしてほしいと思う。

 

「何描いて欲しい?わたし、描いてあげるよ。」
「作ってほしいものある?僕が作ってあげるよ。」

 

こういう子は、一見親切で、クラスの頼もしい存在のように思えるかもしれない。
しかし、周りや先生や親が喜ぶことをがんばること。それは自己表現とは離れた他律的な行動といえる。

 

行動としてはほめられることをしているから、これがまた難しいのだけど。
だけど、あくまで他律なのだ。

 

「怒られるからやらない」

 

これが他律行動だと自覚している人は多い。
そして、例えば子どもに注意する時なんかであっても、
大きな声を出したり、交換条件をつけたりといった
脅迫や恐怖によって、子どもが「やめる」という他律行動にならないような

言葉がけを心がけている人も多いだろう。

 

でも、これと同質で、一見わかりにくく、
ついつい大人が子どもに無自覚にやらせてしまうのが、

「ほめられるためにやる。」

である。

「わー、◯◯さんよくできたね。みんなもがんばろうね。」

 

こんな風に笑顔で大人が言えば、確かに、大半の子どもはやる。
しかし、これも他律行動なのである。

 

子どもはほめられれば嬉しいし、やりたくなる。
でもだからこそ、ほめる、の先にどんな子どもの姿があるのかは、いつも丁寧に考えていたいものである。

とこんなことを言っていると、他律はいけないことなのか?

とか、

人が喜ぶためにっていけないことなの?

とか、そういう反応をもらうこともあるが、そういう話ではない。

 

僕が話したり書いたりしたいのは、
物事には色んな見方がある中の、ある一つの見方であって、
それが白か黒かとかそういうことではない。

 

なにごとも、個人それぞれの、ほどほどに、がベストなのかなと思っている。
そして、ほめることへの僕の着地点も、ほどほどで、ということを思っている。

 

ほめられるのは嬉しいし、評価されたり、賞をもらったりというのも、そのときはいい気持ちにもなる。
でも、それは周囲の評価があるときの話であって、じゃあ周りに評価されなくなったときは、どうなるのか?

 

その人に価値はないのか?

 

その人は、できない・ダメな人なのか?

そんなことは全くない。その時に大事になのは、やっぱり自分の基準なのだと思う。

 

そして実は、評価されてるときだって、評価というのはあくまで副産物であって、

結局のところ、はじまりも終わりも自分の基準。

 

自分への価値判断をするのは、他の誰でもなく、自分しかいないのだ。
そんな自分の基準をゆっくり育ててほしいと思うから。

 

その育ちを見守る大人としては、
僕も出会う子どもたちの面白いアイデアや素敵な作品を前にして、

「すごーい!」「うおぉー!」と歓喜するように、ほめたくなることもあるが、

そういう気持ちや昂りをぐっとおさえ、

自分の基準をゆっくり育ててね。

と心の中で思いながら、ニッとほほえむだけにしている。

 

そして、ほめるではなく、それでいてほほえむ以外の反応や言葉を探し続けていたいと思っている。

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