好きなものは、ただ好きでいい。
毎月一回担当させてもらっている、あるフリースクールでのお話です。
参加したメンバーの中に、今日がはじめましての11歳の女の子がいました。
「わたし、絵、下手だけど。描くのは好きだよ。」
そんな枕から、とりかかりはじめた彼女。
最初は、少し緊張しているようでしたが、進むにつれ、どんどんとノっていき、しまいには鼻歌を歌いながら、作っていました。
完成した作品を眺め、
「これ、家に飾ろう。」
といってそうっとカバンにしまう姿は、なんとも嬉しいものでした。
鼻歌って、とても良いなぁと思います。
自分を表現する時間が、リラックスしてて、楽しくて、それでつい出てきたんですもんね、鼻歌が。
おそらく、最初の自己紹介のときに
「わたし、絵、下手だけど、、」
と言ったのは、自分が表現することに対する、周りの見え方を意識していたから、でてきた言葉なのだろうと思います。
だけど、鼻歌を歌ってるときっていうのは、もう、たぶん周りがどうかということは、彼女の意識の中になくなっている。
自分の表現の時間を、自分のものさしで、満喫していることのあらわれなんでしょうね。
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そこで、あらためて考えることがありました。
それは彼女の最初の一言。
「私、絵下手だけど、描くのは好きだよ。」
これって、本当は、
「私、絵描くの好きだよ。」
でいいんじゃないかなぁと思います。
「下手だけど、」
なんて、前置きなく。
「私、絵描くの好きだよ。」
だけで。
じゃあなぜ、彼女は前置きを置いたのか。
それは、気にしなきゃいけないと、刷り込まれてるからなのだと思います。
表現に対する、他者からのうまいへたという評価を。
本人の中で、思うように表現できた、できなかったは、もちろん大切な感覚です。
だけど、それは他者からの評価とは全然意味が違う。
これがもし、彼女がイラストレーターとして活動しているのであれば、
それは、仕事なわけですから。
クライアントの好みや、クライアントから見たうまいへたの視点を考えるというのはすごくわかります。
だけど、それは、イラストレーターの場合に限ってのことなのだと思います。
つまり、見た目には同じ「描く」という行為であっても、
自分を表現することと、
誰かの要求に応える・評価を得ることは、
もともと質が違うということです。
(時には仕事であっても、自分の表現したい感覚と、クライアントの好みがピッタリ重なる時もあるでしょうが。
これは自分の表現したい世界を、気にいってくれた人がクライアントになったという関係性が基本でしょう。)
表現のはじまりと終わりは、あくまで、本人の中にある。
このことを、わかっていないままに、
子どもの表現に対して、評価するという立場をとっている大人が、保育や教育の世界には、本当に少なくありません。
おぉ、よくできたね。
これは、だめ。
ここは、もっとこうした方がよくなるよ。
なんて。
先生という立場だけで、自分の評価やアドバイスに何の疑いもなく、言ってしまう。
それは、しだいに子ども同士の中にも、ひろがっていき、だんだんと刷り込まれていき、咄嗟の反応として、身体に染み込むのだ思います。
他者からみたうまいへたの評価が。
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フリースクールという場所は、色んな理由があって、子どもたちが集まってきますが。
僕が出会う限り、その理由の一つには、他者評価に対する疑問というのがあるように思います。
そんな意識を、鼻歌にのせて、フワリと吹き飛ばす、彼女は、なんとも穏やかで、素敵です。
だけど、そんな彼女のパワフルさに甘えず、子どもの学びや、形について、丁寧に考えていきたいなぁとも思います。
そして、僕自身の好みとしては、
「私は、絵描くの好きだよ。」
だけで、いいムードが、子どもたちの環境の中に、もっともっと広がっていけばいいなぁと思います。