実践・考察

「こどもたちが、自ら見つけ、考え、遊ぶ、余白のある環境」 をテーマに、
こどもたちを取り巻くヒト・モノ・コトの環境について研究、考察します。

こども主体の保育と放任とありのままについて

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先日、ある保育園の二歳クラスの造形遊びをさせてもらいました。

そこであらためて感じたり考えたことを。

こどもたちは折り紙を丸めたり握ったりして、色んな形にして遊んでいました。

すると、一人の子が、それを「ゴミだー!ゴミだー!」「もー、こんなにちらかすなー!」といってふざけて拾いはじめました。そして乱暴に、その折り紙をカゴに放り投げはじめました。
その言い方やふるまいは、その子自身の本心というよりも、別の理由の、別の葛藤の、表れなのだろうなという感じでした。
そんな彼が楽しくなるきっかけは何があるだろう?
と周りの子どもたちや環境を見わたしつつ。
もう一つ、気になったのは彼が折り紙を「ゴミ」と言ったことでした。
ふだん三歳のこどもたちの遊びを見ていると、自分たちが自分で丸めた折り紙を「ゴミ」ということはほとんどありません。
なぜなら、丸めた折り紙は、手指で思考した結晶としてお土産になったり、想像力で食べ物に変わってごっこ遊びになったりするからです。
でも、彼の中ではそうはなりませんでした。
もう、ゴミなのでした。
これではもったいない。
だって、自分の世界を楽しくするの第一の方法は、何歳になったって、まずは自分の身体と想像力なのだから。
ではなぜ、彼の中ではこれがゴミになってしまったのか。
その背景には、意識無意識とわず、彼と関わる大人の関わりや取り巻く環境が想像されます。
例えば、彼が何かの遊び、それも意味を持たない遊びのたびに「それはなに?」と意味を求められたかもしれないし。(聞いてる方に悪気はありません)
または、「もっとこうするといいよ」といって指導という名の矯正があったのかもしれないし。
(これもよかれと思ってのことで、悪気はありません)
あるいは、自分の想像力を使わなくていいくらい、余白のない完成された遊びの中で遊んでいるのかもしれないし。
その理由はわからないけれど、でもそうした環境によって、彼の想像することの楽しさのスイッチはオフになってしまっているようでした。
そこで僕は提案をしました。
「これはさ、ゴミじゃないんだよ。材料になるのよ材料に♩」
そういってカゴを抱えると
「え?それゴミだよー!」
と彼。
「まあ、見ててよ。」
そういって、隣のテーブルに場所をうつして、そこにまず遊び用のお皿を並べました。
「ねえねぇ、どういうこと?」
聞いてくる彼。
「○○くんはさ、バナナすき?」
「好きだよ!」
「じゃあバナナから作ろう」
僕は黄色折り紙をにぎって、つまんで、形をととのえて、バナナの形にしていきました。
するとその瞬間、
「わー!ほんとだ!バナナだ!ちょうだい!」
彼は目をキラッとさせて言いました。
僕はバナナをお皿の上において、
「じゃあ、○○くんも作ろうよ!」
といって、カゴをさしだすと
「やったー!ありがとうー!!」
といって、しわになった黄色の折り紙をとりだし、早速作りはじめました。
そのあと彼は、
「あ!ぼくいいこと考えたよ!」
といってブルーベリーとジュースもつくりました。
そうして一人で席に戻っていったとき。
とても嬉しい姿を目撃しました。
「うん。おいしい」
と独り言をつぶやきながら食べる真似をしていたのです。
それも誰にみせるともなく、ひとりで。
自分の想像に、自分の表現に、自分で浸るって、なんて素敵なことでしょう。
ゴミといっていた折り紙は、自分の指と想像力で、宝物に変わったのでした。
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こども主体という言葉は、すっかり広まったなと思います。
だけど、色々な現場を見せてもらうと
「これはこども主体というよりも、ただの放任では?」
と思うこともままあります。
放任とこども主体の間はなにか。
それを考えるときに、鍵となる視点の一つが「目の前のこどもの姿は、本当にありのままの姿なのか?」
という視点ではないかと、僕は考えています。
ありのままのこどもたちの主体性を尊重したい。
それは、僕も大手を振って賛成です。
だけど、それは本当に、こどもたちの姿がありのままであるならの話です。
こどもたちの姿が心のままであるならの話です。
だけど、場合によって、そして環境によって、大人に見せる姿は実はありのまま、、、ではないこともある。
今回の彼もそう。
ゴミだー、片付けろー!
といってふざけて遊ぶ姿を、これが彼の個性で、ありのままの姿だから、受け止めよう。
といったら、彼は、たぶんずっとふざけたムーブをして、ふざけるキャラとして、やっていくのだと思います。くすぶっている気持ちを隠しながら。
もちろん、そうした葛藤やおどけさえ、長い目でみたらその人の魅力になっていくでしょう。
それも信じています。
だから彼の姿がダメな姿だとは思いません。
だけど、そんな風に彼がふざける理由の背景に大人の関わりや環境があるなら。少し引っ張られているなら。
それが中間になるくらいに、反対方向にも別の大人が引っ張ることもあっていいよねと思います。
そして、時にはそうやってリードしたり、きっかけをサポートするのも、保育や教育に関わる大人の大切な役目の一つだと思います。
こども主体は大賛成だし、こどもたちは本当にすごい感性も想像力も表現するエネルギーももっているから。
それを存分に尊重される姿勢がこどもの現場にもっともっと広がっていってほしいなと思います。
だけど、こども主体という理想に盲目的になり、自分たちの保育や環境づくりを省みることなく、放任するならば、それは保育者としての役目は果たせていないだろうと思います。
こども主体と放任の間。
その境界線は、人それぞれ、園によっても様々だから、答えはないことだけど。
みんなで立ち止まって考えたり、振り返ったりしながら、進んでいきたいことだなと思います。
p.s.
研修でこういう話をすると
「わかるけど、わたしの保育が否定された気持ちになります。」
と聞かせてくれる先生がいます。
そういってくた先生は、日々理想と現実のギャップを前に大変な葛藤の中で、少しでもこどもたちにできることを模索してるだろうと思います。
だから、そういう先生たちにも拍手とリスペクトです✨
だけど、すぐにできないからといって、理想を描くことは、けっして自分を苦しくさせるものではなくて。
現実を少しでもよくするための道標だから。
理想を考え続けることは大切だと思います。
語り合っていきましょう。

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