こどものすごさが誤解されていないだろうか
最近、保育の現場では「小さなこどもたちはすごい力をもっている」という見方が少しずつ広がっている。それ自体はとてもいいことだなと思っている。
だけど、「こどもの力はすごい」という文脈でここ数年注目されているのは、こどもたちが自分たちで話し合いができるとか、世界や哲学を語れるとか、アート活動が素敵とか、どれも大人からみてもわかりやすいもののように思う。
(わかりやすいというのは、形として目で見ることができる。または、言葉として耳で聞くことができること。)
たしかに子どもたちはそういう姿を見せてくれる時もある。
けれど、そういう姿を大人がねらい、喜んだり、もてはやしてはいけないよと思う。
あくまで平熱に。
なぜなら、こどもたちは大人が喜び期待すれば、それもちゃんとキャッチして、応えてくれるから。
活発に議論をしたら、
かっこいい抽象的な作品を作ったら、
大人が喜ぶ。
それさえ、子どもたちはわかっている。
大好きなママやパパや
大好きな先生が嬉しそうなんだもの。
そりゃあ、がんばる。
しかも何食わぬ顔でがんばる。
好きな人のためにって気づかれたら、相手は素直に喜べないたろうから。
それさえ気づかれないようにふるまう。
僕はそれくらいすごいと思う、子どもたちは。
それくらい物事をよく見ていると思う、子どもたちは。
そう考えると、「ちいさなこどもたちはすごい」といいつつ、まだまだ甘くみてるのではと思ったりもする。
「こどもの力がすごい」というのは、大人から見てすごいと思えるようなことを子どもたちができるからすごいのではない。
お絵かきやごっこ遊び、砂遊びに水遊び、虫とりに鬼ごっこ、歌や踊りといった子どもたちの等身大の遊びが、もうめちゃくちゃすごいのだ。
そうした遊びが、いかに本質的にすごいことをやってるか。それを理解して「子どもの遊び」と甘くみないことが、子どものすごさを理解することの第一歩じゃないだろうかと思う。(等身大というのは、大人から仕掛けなくても環境があれば、自然発生する遊びという意味)
ものすごく意地悪にみたら、今の保育現場で理想の実践とされている子どもたちの姿は、ある意味、こどもの育ちの結果・成果の見せ方が、昔は運動ができるとか計算ができるといった勉強的なスキルから、言葉やコミュニケーションのスキルに変わっただけのように思えたりもする。
やっと、成果や結果ではなく、プロセスが大切だといわれるようになったのに…
ふたをあけてみると、結局は、成果・結果の内容が変わっただけ。
大人が成果・結果にとらわれている本質は変わっていない。
そんな気もする。
本当の意味で、子どもたちの遊びや行動や育ちを信じて、成果や結果への意識を手放すことが大切だ。
もっといえば、その姿に酔いしれる大人たち自身の承認欲求を手放すことが大切だ。
厳しいかもしれないけど、そう思う。
これは、最初に例に書いた各現場の実践そのものの否定ではない。
そうではなくて、昨今の保育研修というと、どこをきってもあの教授、どこをきってもあの保育園の園長、みたいな通り一遍の研修ムードへの問題提起だ。
こんなことを言うと、嫌な気持ちになる現場の先生もいるかもしれないけど。
だけど、立ち止まる、考えるって、いうのが、現場をよりよくしていくための基本だと思うから。
批判や否定をしているのではなくて、僕は、みなさんと考え続けていきたい。
注目されて、みんながわかりやすく感動したり良いなと思った時ほど、もう一回ちゃんと自分の頭で考えることが大事だと。
そして、目の前の子どもたちの姿から考えることが大事だと。
皆さんの今日が子どもたちと素敵な一日となりますように。