実践・考察

「こどもたちが、自ら見つけ、考え、遊ぶ、余白のある環境」 をテーマに、
こどもたちを取り巻くヒト・モノ・コトの環境について研究、考察します。

本物志向の本物信仰

話し尽くされたようなテーマだが、それでも教育に関わっているとやっぱりふとした時に考えてしまう。
本物という概念。
本物に触れるとか
本物に出会うとか
この美味さは本物とか
あの人は本物とか
こどもの現場でも「こどもには本物に」
という言い方は耳にすることも多い。
しかし、本物ってなんだろうか。
そもそも誰が決めているのだろうか。
物体としての本物を真似て作ったものが偽物であることはわかる。
でも、本物の味とか、本物の仕事とか
そういう風に概念として使われる本物という表現にはどうしても違和感を感じてしまう。
例えば、お酒のCMなんかでも
美味い!
というかわりに
このおいしさは本物

といったりする。

でもよくよく考えてみると、
味覚は個人的な感覚だ。(育ってきた環境や経験も含めて)
それに対して、ここで使われる本物という表現は、相対的な価値づけにすりかえられているように思う。
個人的な「うまい」の実感よりも、相対的な「本物」という価値に世間の消費行動は動きやすいということなのだろうか。
そして、それは、もしかしたらそう言われた方が受け手も心地よくなってきているということでもあるのかもしれない。
「美味しいと思う」とか「美しいと思う」とか「面白いと思う」
と表現することは、もっといえば、
「私は好きだ」
ということだろう。
その時の「好き」は、決してそれを好きじゃない人を否定したり攻撃したりするわけではない。

でも、今の時代はなんだか白か黒かの二択で受け取られる物事が多すぎて、かつ全方位配慮過剰になりすぎている。

そんな中では、好きを好きとは言えないムードが無意識に充満しているように思う。
そうしてつい、無意識な自己防衛も含めて
「好き」というよりも「本物」という表現を使ってしまうし、そのほうが気楽。
というのが昨今の本物現象なのではないだろうか。
「本物」といって個人的な感覚を相対的な価値に置き換えることは、今の時代では気楽な表現なのかもしれないけど、それよりもっと気楽なのは、それぞれが「好き」をちゃんと「好き」ということ。

そして、その「好き」を他者と共有できる嬉しさ楽しさだけでなく、共有できないことのモヤモヤにも慣れていって(このモヤモヤを美辞麗句で隠すのではなく、モヤモヤのままに穏やかにいられることが大切だと思う)、「それぞれの好きがあるよね」というムードになったら、今よりもう少し気楽なのではないかと思う。

本物かどうかよりも、こどもたち一人一人の心が動くかどうか。
そして一人一人の感じ方の違いを受け止められるかどうか。

僕はこども達に対して、そこを大切にしたいと思う。

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