実践・考察

「こどもたちが、自ら見つけ、考え、遊ぶ、余白のある環境」 をテーマに、
こどもたちを取り巻くヒト・モノ・コトの環境について研究、考察します。

言葉が心を越えないように

1歳の息子(といってもあと数ヶ月で2歳)とのおしゃべりが面白い。
少ない語彙にたくさんの思いと意味を込めて、懸命に伝えてくれる。

 

 

その表情と行動をみていると、この人は語彙が少ないだけで、決して物事を理解していないわけではない。むしろほとんどのことを理解しているのだろうと、しみじみ思う。
そのやりとりは、言葉をフル活用したおしゃべりを超えて心がつながったような気持ちになることもあるから面白い。

(もちろん、わからなくてお互いヤキモキするときもある。)

 

 

普通のおしゃべり以上にそんな気持ちになるのは、語彙が少ない分、聴く側もいっそうの相手への想像力を働かせるから、より能動的な姿勢で聴く。ということもあるのだろう。
言葉は感情もふくめて、物事の位置をきめることに有効だ。
でも歳を重ね、人生経験の分だけ語彙が増え、その言葉による分類が進むと、便利だけど、自分でも無自覚にその分類のあみからすくいこぼしてしまう心の動きも多くあるように思う。

 

 

言葉にできない心。

 

 

それを心の周辺を言葉にすることで小説家の方たちは表現しようと挑むのだろうし。
それを制限や省略の表現として昇華させたのが俳句や短歌だったりするのかもしれない。(これは知ったかぶりだけど)

 

 

自分のことでいえば絵本だったり、もっとシンプルに絵だったりするのだと思う。
そんな風に整理してみると、それらは、こどもの成長、、というより人間の成長によって、経験、知識、常識によって手放してしまいがちな感性を手放さず、確認したり、共有したりする方法ともいえるのかもしれない。

 

 

と、なぜそんなことを考えたというと、最近その逆を感じる場面があったからだ。

 

 

心が言葉を超えるのではなく、言葉が心を越えてしまっているなぁと感じる人がいた。
その人が話す言葉はとても綺麗で、そしてその言葉をもって話す内容も「素敵ですね」としか言いようのない話だった。

 

 

だけど、言葉も話の内容も、なんとも素敵なのに、聴いていてまったく心が動かない。
その一番の理由は言葉の内容と顔の表情がちぐはぐだったから。

 
口角は上がっているけど、目の周りの筋肉が緩んでいない。
声がすごく尖っていて、チクチクする。
だから言葉と内容がどれだけ素晴らしくとも、伝わってこない。
その人を見ていて、コミュニケーションというのはやっぱり心あってのことで、言葉はその方法のあくまで一つなんだなと思う。

 

 

話は最初にもどって0.1.2歳くらいの子どものおしゃべりについて。

 
流暢におしゃべりをするようになる前の子どもは、もしかしたら
「まだ、話せない」のではなくて、
「あえて話さない」のではないだろうか。

 

言葉よりも大切なことがあるから。
言葉はその大切なことがあってこその方法だから。

 
言葉が好きだからこそ、言葉が心を越えないように。

 
心を込めて言葉を使いたいと思うのでした。

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